尾﨑(和賀)萌子のホームページ

Moeko Waga Ozaki

I study conversations between Japanese and American parents and children through the lenses of sociolinguistics, English linguistics, contrastive linguistics, and language socialization.
My research focuses on why children’s speech and values change based on their environment and culture, and how adult-child communication varies across cultures.

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今朝、息子から突然こんな問いを投げかけられた。 👦「ねえママ、地獄ってあると思う?どんな場所かな?」 その瞬間、私の頭には、灼熱の炎に炙られる罪人たちや、金棒を持った鬼といった、いわゆる“お約束”的な地獄のイメージが浮かんだ。 けれど、あえてそれを口にせず、息子自身の考えを聞いてみることにした。 👩「ん〜、どうだろうね。どう思う?」 すると返ってきたのは、想像の斜め上をいく世界観だった(以下、ほぼ発話そのまま)。 👦「んーとね。なんか透明な、雲とかが見えるものがあって、それで赤っぽくて透明の階段があって、それで太陽が見えて、消えるの」 👩「なるほどね〜階段は上にいくの?下に行くの?」 👦「階段は上に行って、神様がいて、もう1回その前で生まれ変わるようにするの」 👩「あ、階段は上るんだ。」 👦「うん。それで階段を上る時には骸骨にちょっとなってて、階段の一番上の時には耳がちょっと残ってるくらいになる」 👩「へ〜〜〜〜。天国はどんなかんじ?」 👦「天国は神社の門みたいなやつがあって、そこの下を通ると赤い階段上って、すぐ天国」 👩「天国はどんな見た目なの?」 👦「ん〜〜〜〜〜なんかそれだけ」 👩「そっか。じゃ天国では家族に会えるかな?」 👦「会えない」 👩「えっそうなの?じゃ地獄は?」 👦「天国も地獄も家族と一緒に死むなら会えるけど、一緒じゃないと会えない」 👩「へ〜〜〜〜〜じゃ先に死んじゃって天国にいる人とは?会えないの?」 👦「うん、会えない」 息子の語りでまず興味深かったのは、 天国は上、地獄は下、という空間的メタファーを持っていないことだ。 私たち大人は、言語や宗教、物語を通して「上=善/下=悪」「上=救済/下=罰」という対応関係を、ほぼ無意識に身につけている。 これは認知言語学的にもよく知られている概念メタファーだ。 けれど息子の世界では、 地獄は「上に向かって進む場所」であり、そこでは罰ではなく、変化と再出発(輪廻転生)が起こる。 つまり彼にとって地獄とは、「悪い人が行く場所」ではなく、いったん解体され、作り直される場なのだ。 もう一つ印象的だったのは、「最後に残るのが耳」という表現だ。 医学的には、心停止後もしばらく聴覚が保たれる可能性があると言われることがあるが、息子がそれを知っているはずもない。 それでも「聞く」という感覚を、存在の最後まで残るものとして直感的に選び取っている点は興味深い。 耳が最後まで残る、という息子の語りは、「他者とのつながり」や「呼びかけ可能性」が、存在の核にあるという感覚の表れなのかもしれない。 天国や地獄に行っても、家族には会えない。 ただし「一緒に死んだら」会える。 このルールもまた、大人の宗教観とはかなり異なる。 死後の再会を希望として描く物語は多いが、息子の世界では、死後は徹底的に個別化されている。 一般に、愛や平和、死といった抽象概念を安定的に理解できるようになるのは、小学校高学年以降だと言われている(Carey, 2000)。 それ以前の子どもにとって、死とは「意味」ではなく、身体・変化・移動として経験的に解釈されるものなのだろう。 また、親が特定の宗教を信仰していても、5〜10歳の子どもの死生観は必ずしも一致しないという研究もある(Misailidi ...
私は大学で英語や言語学を教えている。 授業の冒頭には、恒例の「Q&Aコーナー」がある。授業内容に関係あってもなくてもOK、学生が匿名で投げた質問の中から、毎回いくつかをランダムに拾って答えるというものだ。そんなQ&Aで、どの授業でも必ず出てくる鉄板質問がある。 「お子さんはバイリンガルにしたいですか?」 英語教師で、言語学者で、本人もバイリンガル。学生としては、ここは当然「YES」を期待しているはずだ。 しかし私の答えは「NO, but maybe」である。 すると、それまで机に顔をうずめていた学生が、だいたいこのタイミングで顔を上げる。 なぜ「ぜひバイリンガルに!」と思わないのか。理由は大きく分けて三つある。 1. バイリンガルになること自体より、「維持」がとにかく大変 2. 息子には、今のところその努力をしたいモチベーションがない 3. やりたいと思ったときにやればいい、と思っている まず最初に、誤解のないように言っておきたい。 私は英語教育を否定しているわけでも、早期教育やイマージョン教育に否定的なわけでもない。子どもも教育も本当にさまざまで、「これが正解」という一つの答えはないと思っている。ここで書くのはあくまで、「私個人が自分の家でどうしているか」という、かなり個人的な話だ。 さて、理由を一つずつ順番にみていきたいと思う。 理由①:バイリンガルはなってからがしんどい 私は幼少期をアメリカで過ごした。おかげで、気づいたときには英語を話していた。これは本当にラッキーだったと思う。 ……ただし、問題はそこからだった。 日本に帰国すれば、当然、英語は少しずつ抜けていく。人間の忘却力は想像以上に強力で、どれだけ刷り込まれた言語でも、油断すると指の間から砂のようにこぼれ落ちる。 よく、「忘れても、また思い出せるでしょ?」と言われる。いや、問題はそこじゃない。 英語という言語は、私の場合、アイデンティティと強く結びついている。日本語で話す私と、英語で話す私では、性格が微妙に…いや、けっこう違う。 だから英語を忘れるというのは、単語を忘れること以上に、自分の性格の一部へのアクセス権を失う感覚に近い。 結果どうなるかというと、英語を忘れるのが怖くなる。忘却に抗うため、日常生活で必死に英語に触れ続ける。 そして少しでも「出てこない単語」があると、謎の喪失感に襲われる。 正直に言うと、このプレッシャーは結構重い。 「英語が話せるからこその贅沢な悩みでしょ」と言われることも多い。それも分かる。分かるけど。 毎日、日本で日本語だけで生きていても、「英語を維持しなきゃ」という見えない枷は、思っている以上にずっしりしている。この重さを、息子に背負わせたいか?と聞かれたら、私は即答できない。 理由②:やる気が、ほぼゼロ 息子はイマージョン教育をしている幼稚園に通っている。入園を決めた理由は、いきなり「科目」として英語に触れるよりも、自然に文字通り「イマージョン(没入)」された方が、英語を好きになれる可能性が高いのではないか、と思ったからである。そういうわけで、英語に触れる機会は、世間的に見ればかなり多い。 しかし、最近の息子の発言をここで紹介したいと思う。 「今日、英語の日か〜。いやだな〜」 「英語覚えるのめんどくさい」 「日本語のほうが好き」 「(英語の日の前日)僕お熱あると思う」 ……はい。 ここで登場するのが、モチベーション理論である(鹿毛, 2012)。 ...
年末になると、なぜか我が家は毎年あらゆる菌とウイルスにやられます。 今年も例外ではなく、 11月下旬に私が肺炎 → 2週間後に息子が原因不明の発熱 → さらに2週間後に夫がインフルエンザ。 急な予定変更や看病が続く中、学期末に向けて仕事と授業準備は加速。 正直、ママはもう限界でした。 それでもなんとか今年も綱渡り生活を完走。気分は「イカゲーム(育児編)」です。 来年もなんとか生き残りたい所存です。 そんな師走。 ママ業・妻業・家族専属秘書・家族専属看護師・教師を同時進行していると、当然のようにミスも起きます。 …という、長い前置きはすべて、 先日、息子の上履きを幼稚園に持っていくのを忘れた言い訳です(笑)。 寝坊 → ドタバタで朝支度 → 幼稚園へ。 到着して、息子のカバンから上履きを出そうとした瞬間、 ……ない。 「ごめーん。今日は職員室で借りて……」 そう言うと、息子が一言。 「しっかりしなさ〜い!僕は6歳でママは34歳なのに〜!ママの方が年上なのに〜!しっかりしなさ〜い!」 (ちなみに「34歳」は会話分析的に言えば、【↑さんっ(.)じゅ::(.)↑よんっさいっ】というスーパー強調付きでした) ……怒られました。 いや、それあなたの上履きだからね? 年長なんだし、自分で管理してもいいんじゃない? という話はさておき。 ここで私の脳内に、例の言語学アラームが「ピコーン」と鳴ります。 というわけで、年内最後の投稿は、私の研究ど真ん中の話で締めたいと思います。 私たちはつい、「年上なんだからしっかりして」と考えがちですが、年齢をどれだけ重視するかは文化によって大きく異なります。 年功序列を強く意識する文化もあれば、そうでない文化もある。その違いは、ことばの使い方にも表れます(メイヤー, 2015)。 息子の発言をもう一度見てみましょう。 「僕は6歳で、ママは34歳なのに!」 ここには、こんな前提があるはずです。 ママ=年上=expert(熟達者) 自分=6歳=novice(初心者) ...
先日、新しいボードゲームが我が家に届きました。 箱を開けた瞬間から私はワクワク。 「早く見せたい!」という気持ちを抑えきれず、 👩「ねーねー、これ見てみて!(わくわく)」 と6歳の息子に声をかけたところ、 👦「(テレビを見ながら)あとで見せて〜」 ……あ、はい。 ベイブレードのアニメ、強い。 すると息子、追い打ちをかけるように、 👦「また後で教えて!後で見せてね」 👩「はい、わかりました……」 この瞬間、 ボードゲームよりもベイブレードが優先された悲しみが、胸をよぎりました。 が!! それよりも!! 「あ、息子がネガティブ・ポライトネス身につけてるっっ🤩🤩🤩🤩」 という興奮が、悲しみを一瞬で上回ったのです。 やんわり断る力は、実はかなり高度です。 「今は無理」と言うだけなら簡単です。 でも息子は、私の気持ちを気にかけ、「あとで教えてね」と完全拒否はしない、というかなり高度な断り方をしていました。 このように、相手の気持ちや立場をなるべく傷つけないようにしながら断ることを、言語学では ネガティブ・ポライトネス(negative politeness) と呼びます。 人は会話をするとき、実はいつも2つの気持ちのあいだで揺れています(Brown & Levinson, 1987)。 ひとつ目は、消極的な面目(negative face)。 別名「独立の面目」とも呼ばれ、1人でいたい、自分で決めたい、今は干渉されたくないといった、「放っておいてほしい」という気持ちです。 もうひとつは、積極的な面目(positive face)。こちらは「連帯の面目」とも言われ、褒められたい、仲良くしたい、嫌われたくない、といった、「つながっていたい」という気持ちです。 今回の場面でいうと、 「今はテレビを見たい」→ ① 独立の面目 「ママを無下にしたくない」→ ② 連帯の面目 ...