友人の子どもが1歳くらいで、最近自我がぐんぐん芽生えてきている。その子が今日、お母さんに抱っこされながら海老反りで大泣きしているのを見て、ふと思った。
あー、あの時期は本当に大変だったな、と。
思い返すと、修士の入学試験が終わった直後に妊娠がわかり、入学して2ヶ月で出産した。それからは育児と学業の両立が予想以上にハードで、産後数ヶ月の記憶は断片的にしか残っていない。
そして、そのわずかな断片は、どれも母としての至らなさが胸に刺さる瞬間ばかり。
夜泣きに疲れ果て、ベビーベッドで泣く息子を前に放心した深夜2時。
授乳がうまくいかず、検索魔と化した日。
息子が寝ている隙にレポートや論文を書いて提出するも納得できる仕上がりにはならず、育児も学業も中途半端だと自己嫌悪に陥った日。
そして、どうしようもない気持ちのまま息子にきつく叱ってしまったときは、いつも必ずこう思っていた。
「あぁ、これで一生の傷になってしまったらどうしよう」
今思えば立派な育児ノイローゼである(その後、産後うつに発展した)。
今日、夕飯を食べながらふと気になった。あれほど心配していた“心の傷”、実際残っているのだろうか?というわけで、本人に聞いてみた。
私「いっっちばんむかーーしの記憶って、いつ頃の?」
息子「え、年少のとき?」
私「もっともっと前でもいいよ」
息子「○○保育園でトミカで遊んでた、たしか」
私「うんうん、他には?」
息子「ママのお弁当がぐちゃぐちゃで、デザートなくて、野菜いっぱいだった」
私「……うん。他には?昔マンション住んでたの覚えてる?」
息子「え、そうなの?前の白い家は外は覚えてるけど、中は忘れちゃった」
トミカの記憶も、ぐちゃぐちゃ弁当の記憶も、白い家の記憶も、全部3歳の頃のもの。3歳以前(マンション時代)の記憶は、まっさら。綺麗に消えている。
調べてみると、長期記憶が本格的に働き始めるのはおおよそ3歳頃らしい。まさに教科書どおり。
記憶には複数の要素が必要になる。脳科学的には、海馬(記憶の保持・固定)や前頭前皮質(記憶や情報の整理・想起)の発達が必要である。
乳幼児期にも記憶の回路自体はあるが、まだ成人のように機能しないため、長期的に残らない。
さらに3歳頃になると脳の成熟に加え、「心の理論」(他者と自分の感情や視点を区別できる能力)が発達し、自分の体験を自分のこととして理解する力が強まる。これは記憶保持に重要な役割を果たす(Howe, 2024)。
じゃあ小さい子どもはまったく覚えないのか、といわれればそういうわけではない。ただし、長期記憶として残す仕組み、記憶の強度、記憶の引き出しやすさが段階的に育ち、本格的に残り始めるのは2〜3歳頃である(Bauer, 2007)。
ちなみに、文化によって記憶の傾向が異なることも知られており、同じ出来事でも何をどう覚えるかは環境に影響される。(この話は長くなるのでまた別の機会に。)
改めて、人間は本当によくできているな、と思った。
考えてみれば、仕事もそうだ。新人のときは何もできず、3年経ってようやく慣れる。育児も同じで、子どもが生後1日なら、母親もママ1日目。出産した途端に天から母性が降ってくると思っていたが、私の場合、そんなことはなかった。即戦力は何一つない、ただの無力な新人ママであった。
そして3年くらい経った頃に、やっと「育児って楽しいかも」と思えるようになった。その頃ちょうど、子どもの記憶にも残り始める。
だからこそ、それまでの母としての葛藤や失敗は、きれいに忘れてくれる。これって、ものすごく救いのある仕組みではないだろうか。
修士1年、育児と学業に溺れそうだったあの頃の私がこれを知っていたら、もう少し肩の力を抜けていたのかもしれない。そんなことを思った秋の夜。
参考文献
Bauer, P. J. (2007). Remembering the times of our lives: Memory in infancy and beyond. Lawrence Erlbaum.
Howe, M. L. (2024). Early childhood memories are not repressed: Either they were never formed or were quickly forgotten. Topics in Cognitive Science, 16(4), 707-717.