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言語学な育児日記#25 恋人になるには宣言が必要、なら友達は?

息子が小学校に入って、1ヶ月が経った。

親としてやはり気になるのは、「友達ができたか?」ということである。

幼稚園までは、仲の良い子たちと毎週末のように一緒に遊んでいた。ありがたいことに、いつも友達に囲まれていた。しかし、小学校は同じ幼稚園から上がる子が1人もいない。文字通り、ひとりぼっちからのスタートである。

とはいえ、小学生なのだから、すぐに友達はできるだろう。そう思いつつも、帰宅した息子に、つい聞いてしまう。

私:「どう〜? 今日友達できた〜?」
息子:「1人はできたよ! もう1人はあと少しで友達になれそう。明日なれるかなー」
私:「あと少しでできるってどういうこと? 明日はなんでなれそうなの?」
息子:「今日は時間なくて聞けなかった。明日聞いてみる」
私:「友達になるには、何か聞かないといけないの?」
息子:「そりゃそうでしょ!! 友達にならない?って聞かなきゃ!!」
私:「そうしないと友達になれないの?」
息子:「当たり前だよ! そうじゃないと、友達なのか、友達じゃないのかわからないじゃん!ママ友達作ったことないの〜?」

なるほど。
確かに、一理ある。恋人に対しては、「好きです。付き合ってください」結婚するときには、「結婚してください」と言う。
それなのに、なぜ友達だけは、「友達になってください」が一般的ではないのだろうか。

考えてみると、恋人や結婚には、関係の開始に強い制度性や排他性、責任が伴う。誰と付き合っているのか、誰と結婚しているのかは、社会的にも重要な意味をもつ。そのため、「付き合ってください」「結婚してください」という発話は、単なる気持ちの表明ではなく、関係を変える行為として機能する。

言語学では、このように、言うこと自体が何らかの行為になる発話を「発話行為」と呼ぶ。たとえば、「約束します」と言えば約束することになるし、「命名します」と言えば名前をつけることになる。Searle(1979)の議論に従えば、「付き合ってください」や「結婚してください」もまた、関係を新しく作り出す、あるいは変化させる発話行為として見ることができる。

一方で、友人関係は基本的に排他的ではない。誰かと友達になったからといって、他の人と友達になれなくなるわけではない。制度的な手続きもない。だから、大人の友人関係は、たいていの場合、いつの間にか始まっている。

何度か話す。一緒に帰る。同じ話題で笑う。気づいたら、なんとなく友達になっている。

大人は、この「なんとなく」に耐えられる。むしろ、友達関係にいちいち宣言がある方が、少し気恥ずかしい。
しかし、子どもにとっては、この曖昧さこそが難しいのかもしれない。

Corsaro(1979)は、子どもが遊びに入るときには、かなり複雑な「参加の儀礼」があることを指摘している。子どもはただ黙って遊びに加わるのではなく、「入れて」「一緒にやっていい?」といったやり取りを通して、その場に参加する権利を確認していく。
つまり、子どもにとって「友達かどうか」を確認することは、単なるラベル確認ではない。それは、「この子と一緒に遊んでいいのか」、「この関係空間に入っていいのか」を確かめる、社会的な手続きなのである。

息子の、「そうじゃないと、友達なのか、友達じゃないのかわからないじゃん!」という発言は、まさにここに当たる。

大人にとって友達とは、徐々にできるものかもしれない。
しかし、小学1年生にとって友達とは、ある日、相手に確認し、相手から受け入れられることで成立する関係なのだろう。そこには、「友達である/友達ではない」という境界があり、その境界を越えるための、ちょっとした宣言が必要なのである。

息子は明日、その子に聞くらしい。
「友達にならない?」
どうか、よい返事がもらえますように。

Corsaro, W. A. (1979). “We’re friends, right?”: Children’s use of access rituals in a nursery school. Language in Society, 8(2–3), 315–336.
Searle, J. R. (1979). Expression and Meaning: Studies in the Theory of Speech Acts. Cambridge University Press.