尾﨑(和賀)萌子のホームページ

Moeko Waga Ozaki

I study conversations between Japanese and American parents and children through the lenses of sociolinguistics, English linguistics, contrastive linguistics, and language socialization.
My research focuses on why children’s speech and values change based on their environment and culture, and how adult-child communication varies across cultures.

I’m also navigating the challenges of raising my own preschooler!

What's new

先日、車の中での息子との会話。 (トイレットペーパーの芯を誇らしげにミラー越しで見せながら) 「ねぇママ、これ好き?」 「うん、好きだよ(信号待ちでテキトーに返事)」 「本当に好き? 本当に本当にどう?」 ……気づけば私は、「トイレットペーパーの芯が好きな人」になっていた。 この「本当に好き?」の連発。 一見かわいい質問に見えるけれど、これ、なかなか鋭い。 彼はどうやら、私の「本音」を確かめようとしていたらしい。 人はときどき嘘をつく。 でも、それは必ずしも悪意からじゃない。 「相手を傷つけないように」とか「場をやわらげるために」とか、そういう「やさしい嘘」、つまり white lie(白い嘘) だ。 そこで気になったのが、「子どもはどのようにして white lie を理解し、使い始めるのか」という点だ。 子どもは3歳くらいから嘘をつくことができるようになる。 ただしその頃の嘘は「叱られたくない」とか「チョコ食べたのバレたくない」などの自己防衛系。 まだ“相手を思いやる”タイプの嘘ではない。 ところが5〜7歳になると、状況が変わってくる。 「相手の気持ちを守るための嘘」が理解できるようになる(Warneken & Orlins, 2015; Talwar et al., 2007)。 たとえば、「ママが作ったちょっと焦げたパンケーキ」に「おいしいね」と言えるようになったら、立派な成長の証。 ……うん、涙が出るほどおいしい(いろんな意味で)。 日本ではさらに、「本音と建前」や「空気を読む」といった文化の影響もあり、white lie 的な言葉づかいが早く身につくといわれている。 たとえば、内心「かわいいと思ってないけど“かわいい〜!”」とか、 「いらないけど“ありがとう〜うれしい〜!”」とか。(Ip et al., ...
最近、6歳の息子がハマっている表現がある。 「えー?!えっ、えっ、えっ、えっ、えーーーーっっ、えー?!?!?」 これを本当に心の底から、どうでもいいことに対して、あたかも地球がひっくり返ったかのように驚きながら言うのである。 しかも大抵は、私が運転して幼稚園に送っている朝の車中。突然大声をあげられると、どうしてもこちらもびっくりしてしまい、一瞬注意が逸れるので、なかなか厄介である。 そこでふと思った。 彼はしょうもないことには全力で驚くのに、パーティーを開いてあげたり、急にお菓子を買ってあげたりしても「やったー!」とは言うものの、「えー!」とは言わない。驚きの「えー!」を使うようになったのは、ほんの最近のことだ。 もしかしたら「驚き」という感情の本質をまだ理解していないのかもしれない。そう思い、試しに聞いてみた。 母「ねえ、驚いた顔してみて」 息子 (無表情) 母「驚いた顔ってどんな顔?」 息子 (鼻の下を伸ばす) 母「え、眉毛あげたり、口開けたり、目を大きくしたりするんじゃない?」 息子「え〜そんなことしないよ〜笑笑」 (眉毛を上げ下げしようとして失敗、ふざけ始める) 母「じゃあ、どんな時に驚く?」 息子「バナナな時、アハハハ」 母「じゃあ、いきなりプレゼントもらったら?」 息子「バナナーバナナーバーナーナ あははは」 ...息子がふざけすぎていて、「驚き」をどこまで理解しているのか確認できない。 いずれにせよ、これまでのやりとりから息子は「驚き」をうまく言語化できない、もしくは驚いている自分をメタ認知できていなさそう。 乳児は、母親が驚いていることを理解できる。これは生存本能の一つで、「親が驚く=危険=近づかないほうがいい」と推測できるからだ。実際の研究でも、親が新しいものに驚いたり後ずさりしたりすると、子どもも近づかなくなる傾向が確認されている (Klinnert et al., 1983)。 ただし、「驚き」という感情を自分自身で理解するには、もっと複雑なプロセスが必要になる。 ・まず「何かが起こるだろう」という予測を立てる ・その予測が裏切られる ・その不測の事態に気持ちが追いつかず「驚いている」と自覚する この一連の流れを瞬時に処理できてこそ、「驚き」という感情を理解できる (Bartsch & Estes, 1997)。 さらに他人の「驚き」を理解するには、その人がこうした思考プロセスを辿っていることを表情から読み取らなければならない。しかし「恐怖」と「驚き」の表情を区別するのは子どもにとって難しく、10歳でも間違えることがある (Gosselin & Simard, ...
息子が生まれてから気づいたことがある。 それは、年々「ノーメイクで繰り出せる行動範囲」が拡大している、ということである。 息子が生まれる前は、「ノーメイクで電車に乗るなんて…せめて眉毛くらい描こう」と思っていた。 ところが今では、新幹線と電車を乗り継ぎ、六本木までも堂々たる姿でノーメイクで出歩けるようになった。 進化なのか退化なのか、単なる怠慢なのかはよくわからないが、少なくとも「人目を気にする」ということの優先順位がここ数年で著しく下がったのは確かである。 そんなノーメイク快適ライフを満喫していたある日、大学教員向けの研修会に参加することになった。 「さすがにノーメイクではまずいか…」と思い、久しぶりに化粧をすることに。 ところが夏休み中のノーメイク生活が長すぎたせいで、化粧の仕方をほぼ忘れている。 さらに薄暗い部屋で慌てて化粧をしたら、なんだかオカメインコのような厚化粧に…。 「ちょっと濃いかな…」とは思ったものの、今さら直す時間もない。 朝ごはんもまだ、息子のお弁当もまだ。うわぁ〜〜〜と焦っていたそのとき、6歳の息子が放った一言。 「え、顔めだりすぎぃぃぃぃwww アハハハハ😆」 やっぱり...目立ちすぎか。 そんなにオカメインコか。6歳児でも気づくレベルなのか!! 慌ててチークを手でゴシゴシ落としながら、ふと思ったのは息子の「めだりすぎ」という言葉のことだった。 「めだりすぎ」– これは立派な言語現象で、専門用語で「過剰一般化」と呼ばれる。 たとえば、子どもはこんなふうに規則を見つける: 読んだ → 読む 飲んだ → 飲む だから、「死んだ → 死む」になるだろう!と推測し、「カブトムシ、死むの?」なんて言ってしまう。これが過剰一般化。 同じように「連用形+すぎる」という形を学んだ子どもは、 走る → 走りすぎ(る→り) 遊ぶ → 遊びすぎ(ぶ→び) 読む → 読みすぎ(む→み) 書く → ...
最近、我が家ではカブトムシ&大クワガタブームが巻き起こっています。 まさか、自分の人生に「昆虫飼育」という項目が追加される日が来るとは…。息子が生まれる前には想像もしていませんでした。 そう、子どもがいる夏=虫のいる夏。全力で。 ここで告白しますが、私、虫が大っ嫌いです(涙)。 小学生のころ、「虫が平気になるかも?」という期待を込めてキャンプに参加したことがあるのですが、夜中に顔サイズの蛾が大量に襲来し、結果として虫嫌いがレベルアップしたというトラウマ付き。 そんな私も、今では… 「ケースから出されたカブトムシくらいなら、ギリ直視できる!」(※触るのはまだ無理) しかも、最近ではあのつぶらな瞳が愛おしく見えてきた…ような気さえする。…幻覚かな?(笑) さてさて、本題。数日前の息子との会話。 👩「カブトムシのケースに木の皮入れないと、ひっくり返った時に起き上がれないかもよ?」 👶「でも木の皮ないんだよね〜。あっ!幼稚園の木から剥がしてくる!?」 👩「あーそれは木がかわいそうでしょ」 👶「そう?オレ、木の気持ちとかわかんないし」 「木がかわいそう」というこの表現、日本語ではよく使われますが、英語圏などではあまり見られません。 英語では “Don’t hurt the tree” とか “That’s bad for the tree” とは言っても、「かわいそう」は出てこない。 なぜなら、「かわいそう」は感情を持たないものに感情を与えることで、共感を育てるという、日本ならではの教育的表現なのです(Clancy, 1986; 1999)。 このような表現は、言語社会化(Ochs & Schieffelin, 1986)という観点からも説明がつきます。 日本では、子どものうちから「他人の気持ちを察すること」が重視されていて、その文化が言葉づかいにも表れているというわけですね。 つまり、私が「木がかわいそう」と言ったのは、ただの感情論ではなく、実は「他者の気持ちを推しはかる」ための練習だったわけです。(言った時は全く意識してなかったけど😅) 一方、息子の「木の気持ちなんてわかんないからさ」は、共感の芽をへし折るような返答にも見えるけれど、見方を変えればとても欧米的で論理的。 ……と書くと聞こえはいいけど、要するに「母の地道な教育が届いてない疑惑」が濃厚です(笑) そんなこんなで、今日も我が家のカブトムシたちは元気にゼリーをむさぼっています。 私も「共感力と虫嫌い」のはざまで、なんとかやってます。 Clancy, ...