
Moeko Waga Ozaki

I study conversations between Japanese and American parents and children through the lenses of sociolinguistics, English linguistics, contrastive linguistics, and language socialization.
My research focuses on why children’s speech and values change based on their environment and culture, and how adult-child communication varies across cultures.
I’m also navigating the challenges of raising my own preschooler!
What's new
息子が生まれてから気づいたことがある。 それは、年々「ノーメイクで繰り出せる行動範囲」が拡大している、ということである。 息子が生まれる前は、「ノーメイクで電車に乗るなんて…せめて眉毛くらい描こう」と思っていた。 ところが今では、新幹線と電車を乗り継ぎ、六本木までも堂々たる姿でノーメイクで出歩けるようになった。 進化なのか退化なのか、単なる怠慢なのかはよくわからないが、少なくとも「人目を気にする」ということの優先順位がここ数年で著しく下がったのは確かである。 そんなノーメイク快適ライフを満喫していたある日、大学教員向けの研修会に参加することになった。 「さすがにノーメイクではまずいか…」と思い、久しぶりに化粧をすることに。 ところが夏休み中のノーメイク生活が長すぎたせいで、化粧の仕方をほぼ忘れている。 さらに薄暗い部屋で慌てて化粧をしたら、なんだかオカメインコのような厚化粧に…。 「ちょっと濃いかな…」とは思ったものの、今さら直す時間もない。 朝ごはんもまだ、息子のお弁当もまだ。うわぁ〜〜〜と焦っていたそのとき、6歳の息子が放った一言。 「え、顔めだりすぎぃぃぃぃwww アハハハハ😆」 やっぱり...目立ちすぎか。 そんなにオカメインコか。6歳児でも気づくレベルなのか!! 慌ててチークを手でゴシゴシ落としながら、ふと思ったのは息子の「めだりすぎ」という言葉のことだった。 「めだりすぎ」– これは立派な言語現象で、専門用語で「過剰一般化」と呼ばれる。 たとえば、子どもはこんなふうに規則を見つける: 読んだ → 読む 飲んだ → 飲む だから、「死んだ → 死む」になるだろう!と推測し、「カブトムシ、死むの?」なんて言ってしまう。これが過剰一般化。 同じように「連用形+すぎる」という形を学んだ子どもは、 走る → 走りすぎ(る→り) 遊ぶ → 遊びすぎ(ぶ→び) 読む → 読みすぎ(む→み) 書く → ...
最近、我が家ではカブトムシ&大クワガタブームが巻き起こっています。 まさか、自分の人生に「昆虫飼育」という項目が追加される日が来るとは…。息子が生まれる前には想像もしていませんでした。 そう、子どもがいる夏=虫のいる夏。全力で。 ここで告白しますが、私、虫が大っ嫌いです(涙)。 小学生のころ、「虫が平気になるかも?」という期待を込めてキャンプに参加したことがあるのですが、夜中に顔サイズの蛾が大量に襲来し、結果として虫嫌いがレベルアップしたというトラウマ付き。 そんな私も、今では… 「ケースから出されたカブトムシくらいなら、ギリ直視できる!」(※触るのはまだ無理) しかも、最近ではあのつぶらな瞳が愛おしく見えてきた…ような気さえする。…幻覚かな?(笑) さてさて、本題。数日前の息子との会話。 👩「カブトムシのケースに木の皮入れないと、ひっくり返った時に起き上がれないかもよ?」 👶「でも木の皮ないんだよね〜。あっ!幼稚園の木から剥がしてくる!?」 👩「あーそれは木がかわいそうでしょ」 👶「そう?オレ、木の気持ちとかわかんないし」 「木がかわいそう」というこの表現、日本語ではよく使われますが、英語圏などではあまり見られません。 英語では “Don’t hurt the tree” とか “That’s bad for the tree” とは言っても、「かわいそう」は出てこない。 なぜなら、「かわいそう」は感情を持たないものに感情を与えることで、共感を育てるという、日本ならではの教育的表現なのです(Clancy, 1986; 1999)。 このような表現は、言語社会化(Ochs & Schieffelin, 1986)という観点からも説明がつきます。 日本では、子どものうちから「他人の気持ちを察すること」が重視されていて、その文化が言葉づかいにも表れているというわけですね。 つまり、私が「木がかわいそう」と言ったのは、ただの感情論ではなく、実は「他者の気持ちを推しはかる」ための練習だったわけです。(言った時は全く意識してなかったけど😅) 一方、息子の「木の気持ちなんてわかんないからさ」は、共感の芽をへし折るような返答にも見えるけれど、見方を変えればとても欧米的で論理的。 ……と書くと聞こえはいいけど、要するに「母の地道な教育が届いてない疑惑」が濃厚です(笑) そんなこんなで、今日も我が家のカブトムシたちは元気にゼリーをむさぼっています。 私も「共感力と虫嫌い」のはざまで、なんとかやってます。 Clancy, ...
先日、息子と一緒に映画館へ『ドラえもん』を観に行った帰りのこと。 そのあと立ち寄った友人宅で、息子の友達から「どんな映画だったの?」と聞かれた。すると息子、少し考えたあと、こう言った。 「ん〜森で迷子になった女の子がいてぇ〜その子を助けるためにドラえもんたちとかのび太とかが絵の中に入ってぇ〜それでぇ〜かくかくしかじかで女の子と仲良くなった!」 …ざっくりすぎる。いや、ざっくりというより、かくかくしかじかで全部ぶった切った。 おそらく途中で説明するのが面倒になったのだろう。でも、私が「おっ」と思ったのは、6歳にして「かくかくしかじか」を使って要約したつもりになっていること。 この「かくかくしかじか」、要するに「いろいろあったけど細かいことは省略」という意味で使われる日本語の省略表現。年齢的に6歳くらいから、子どもは「重要そうなこと」と「どうでもよさそうなこと」を分けて話す力(要約力)を身につけ始めるので、そういう意味では成長の証とも言える。 でも興味深いのは、「どう端折るか」のほうだ。 英語でも「this and that(あれこれ)」「long story short(要するに)」といった表現はあるけれど、「so, there was this and that, and then…」みたいに話の途中でいきなり雑に省略するのはあまり聞かない。 私が思うに、日本語の「かくかくしかじか」には、ただの省略以上に相手への配慮がこもっている気がするのだ。 たとえば: 「いちいち説明するほどのことじゃないよね」 「話してもネタバレになりそうだし」 「退屈な説明で相手を飽きさせたくない」 …そんな気づかいがこもっているように思う。 実際、日本語の「省略(ellipsis)」には、ただ言葉を省く以上に、婉曲さや気配りといった機能があるとされている(Okamoto, 1985)。 そう考えると、6歳の息子は「かくかくしかじか」という便利な言葉を通じて、日本語とともに日本文化もちゃっかり吸収している…のかもしれない。 とはいえ、あの雑な要約に「相手への配慮」なんて高尚な動機があったとは到底思えない。 単に「説明、めんどくさい…」という一心だったんだろうけれど...。 Okamoto, S. (1985). Ellipsis in Japanese Discourse (Deletion, Zero-Pronominalization, Anaphora) ...
このゴールデンウィーク、我が家に突如として一大旋風を巻き起こしたのは…… ベイブレード。 あの、高速で回転するコマのおもちゃです。 きっかけは、幼稚園のお友達が持っていたのを見て、「自分もやりたい!」と言い出したこと。「どうせすぐ飽きるだろうな……」と思いながらも、子どもの日だし、ということで買ってみたところ、まさかの大ヒット。息子だけでなく、私も夫も、すっかりハマってしまいました。 これまでレゴ一色だった息子も、わずか一日で「ブレーダー」へと華麗に転身。ブレーダー歴の長い選手と同じ構えで練習に励むなど、すっかりその気です。 しかし、気になるのはその横に積まれたレゴの山。 ずっと夢中だったレゴ。次の誕生日にはレゴランドに行く予定で、すでにキャンセル不可のチケットも購入済み。まさか、このまま卒業……?と不安になり、恐る恐る「ねぇ、レゴはもうやらないの?」と聞いてみたところ、 息子は仁王立ちで両手にベイブレードを構えながら一言。 「まぁ、作るは作るよ。遊ぶは遊ぶ。」 おお、トートロジーだ!と職業病的に反応してしまう私。息子が実際にこの構文を使ったのを聞いたのは、これが初めてかもしれません。 そこでふと気になったのは、「子どもはいつからトートロジーを使えるようになるのか?」ということ。 「作るは作る」「遊ぶは遊ぶ」というトートロジーは、日本語特有の言い回し。主語や目的語が省略されていて、文脈によって意味が補われるこの表現を、息子は「レゴもやるし、ベイブレードでも遊ぶよ。どっちも楽しむ」という意味で使っていました。かなり高度な語用論的理解に基づいた発話だといえます。 実際、トートロジーは認知的負荷が高いとされており、先行研究では9〜11歳の子どもでも、その意味を正確に理解できないケースが多いことが報告されています(Osherson & Markman, 1974;山本, 2019)。 とはいえ、息子はごく自然に、そして的確にトートロジーを使っていたのです。たまたまかもしれないし、トートロジーの天才かもしれません(?)。とはいえ、ごく平均的な5歳児であることを考えると、研究デザイン次第では、従来考えられていたよりも早い段階で子どもがトートロジーを理解し、使える可能性が見えてくるように思います。 これまでの研究の多くは、トートロジーの文を聞かせて意味を選択肢から選ばせる実験的手法が主流でした。しかし、小学校低学年以下の子どもにとって、そのような形式での理解度測定は難しいかもしれません。むしろ、自然発話やコーパスデータを活用すれば、子どもが日常の中でどのようにトートロジーを用いているか、より実態に近い知見が得られるかもしれません。 言語習得研究は、戦後から本格化したとはいえ、まだまだ発展途上の領域。思いもよらぬ発見や新しい視点が、日常のちょっとした会話の中に潜んでいることがあります。だからこそ、こうした何気ない子どものひと言が、研究者にとっては大きなヒントになったりするのです。とてもワクワクします! Osherson, D. N., & Markman, E. (1974). Language and the ability to evaluate contradictions and tautologies. Cognition, 3(3), 213-226. 山本尚子(2019). An Experimental ...