尾﨑(和賀)萌子のホームページ

Moeko Waga Ozaki

I study conversations between Japanese and American parents and children through the lenses of sociolinguistics, English linguistics, contrastive linguistics, and language socialization.
My research focuses on why children’s speech and values change based on their environment and culture, and how adult-child communication varies across cultures.

I’m also navigating the challenges of raising my own preschooler!

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友人の子どもが1歳くらいで、最近自我がぐんぐん芽生えてきている。その子が今日、お母さんに抱っこされながら海老反りで大泣きしているのを見て、ふと思った。 あー、あの時期は本当に大変だったな、と。 思い返すと、修士の入学試験が終わった直後に妊娠がわかり、入学して2ヶ月で出産した。それからは育児と学業の両立が予想以上にハードで、産後数ヶ月の記憶は断片的にしか残っていない。 そして、そのわずかな断片は、どれも母としての至らなさが胸に刺さる瞬間ばかり。 夜泣きに疲れ果て、ベビーベッドで泣く息子を前に放心した深夜2時。 授乳がうまくいかず、検索魔と化した日。 息子が寝ている隙にレポートや論文を書いて提出するも納得できる仕上がりにはならず、育児も学業も中途半端だと自己嫌悪に陥った日。 そして、どうしようもない気持ちのまま息子にきつく叱ってしまったときは、いつも必ずこう思っていた。 「あぁ、これで一生の傷になってしまったらどうしよう」 今思えば立派な育児ノイローゼである(その後、産後うつに発展した)。 今日、夕飯を食べながらふと気になった。あれほど心配していた“心の傷”、実際残っているのだろうか?というわけで、本人に聞いてみた。 私「いっっちばんむかーーしの記憶って、いつ頃の?」 息子「え、年少のとき?」 私「もっともっと前でもいいよ」 息子「○○保育園でトミカで遊んでた、たしか」 私「うんうん、他には?」 息子「ママのお弁当がぐちゃぐちゃで、デザートなくて、野菜いっぱいだった」 私「……うん。他には?昔マンション住んでたの覚えてる?」 息子「え、そうなの?前の白い家は外は覚えてるけど、中は忘れちゃった」 トミカの記憶も、ぐちゃぐちゃ弁当の記憶も、白い家の記憶も、全部3歳の頃のもの。3歳以前(マンション時代)の記憶は、まっさら。綺麗に消えている。 調べてみると、長期記憶が本格的に働き始めるのはおおよそ3歳頃らしい。まさに教科書どおり。 記憶には複数の要素が必要になる。脳科学的には、海馬(記憶の保持・固定)や前頭前皮質(記憶や情報の整理・想起)の発達が必要である。 乳幼児期にも記憶の回路自体はあるが、まだ成人のように機能しないため、長期的に残らない。 さらに3歳頃になると脳の成熟に加え、「心の理論」(他者と自分の感情や視点を区別できる能力)が発達し、自分の体験を自分のこととして理解する力が強まる。これは記憶保持に重要な役割を果たす(Howe, 2024)。 じゃあ小さい子どもはまったく覚えないのか、といわれればそういうわけではない。ただし、長期記憶として残す仕組み、記憶の強度、記憶の引き出しやすさが段階的に育ち、本格的に残り始めるのは2〜3歳頃である(Bauer, 2007)。 ちなみに、文化によって記憶の傾向が異なることも知られており、同じ出来事でも何をどう覚えるかは環境に影響される。(この話は長くなるのでまた別の機会に。) 改めて、人間は本当によくできているな、と思った。 考えてみれば、仕事もそうだ。新人のときは何もできず、3年経ってようやく慣れる。育児も同じで、子どもが生後1日なら、母親もママ1日目。出産した途端に天から母性が降ってくると思っていたが、私の場合、そんなことはなかった。即戦力は何一つない、ただの無力な新人ママであった。 そして3年くらい経った頃に、やっと「育児って楽しいかも」と思えるようになった。その頃ちょうど、子どもの記憶にも残り始める。 だからこそ、それまでの母としての葛藤や失敗は、きれいに忘れてくれる。これって、ものすごく救いのある仕組みではないだろうか。 修士1年、育児と学業に溺れそうだったあの頃の私がこれを知っていたら、もう少し肩の力を抜けていたのかもしれない。そんなことを思った秋の夜。 参考文献 Bauer, P. J. (2007). Remembering the ...
先日、車の中での息子との会話。 (トイレットペーパーの芯を誇らしげにミラー越しで見せながら) 「ねぇママ、これ好き?」 「うん、好きだよ(信号待ちでテキトーに返事)」 「本当に好き? 本当に本当にどう?」 ……気づけば私は、「トイレットペーパーの芯が好きな人」になっていた。 この「本当に好き?」の連発。 一見かわいい質問に見えるけれど、これ、なかなか鋭い。 彼はどうやら、私の「本音」を確かめようとしていたらしい。 人はときどき嘘をつく。 でも、それは必ずしも悪意からじゃない。 「相手を傷つけないように」とか「場をやわらげるために」とか、そういう「やさしい嘘」、つまり white lie(白い嘘) だ。 そこで気になったのが、「子どもはどのようにして white lie を理解し、使い始めるのか」という点だ。 子どもは3歳くらいから嘘をつくことができるようになる。 ただしその頃の嘘は「叱られたくない」とか「チョコ食べたのバレたくない」などの自己防衛系。 まだ“相手を思いやる”タイプの嘘ではない。 ところが5〜7歳になると、状況が変わってくる。 「相手の気持ちを守るための嘘」が理解できるようになる(Warneken & Orlins, 2015; Talwar et al., 2007)。 たとえば、「ママが作ったちょっと焦げたパンケーキ」に「おいしいね」と言えるようになったら、立派な成長の証。 ……うん、涙が出るほどおいしい(いろんな意味で)。 日本ではさらに、「本音と建前」や「空気を読む」といった文化の影響もあり、white lie 的な言葉づかいが早く身につくといわれている。 たとえば、内心「かわいいと思ってないけど“かわいい〜!”」とか、 「いらないけど“ありがとう〜うれしい〜!”」とか。(Ip et al., ...
最近、6歳の息子がハマっている表現がある。 「えー?!えっ、えっ、えっ、えっ、えーーーーっっ、えー?!?!?」 これを本当に心の底から、どうでもいいことに対して、あたかも地球がひっくり返ったかのように驚きながら言うのである。 しかも大抵は、私が運転して幼稚園に送っている朝の車中。突然大声をあげられると、どうしてもこちらもびっくりしてしまい、一瞬注意が逸れるので、なかなか厄介である。 そこでふと思った。 彼はしょうもないことには全力で驚くのに、パーティーを開いてあげたり、急にお菓子を買ってあげたりしても「やったー!」とは言うものの、「えー!」とは言わない。驚きの「えー!」を使うようになったのは、ほんの最近のことだ。 もしかしたら「驚き」という感情の本質をまだ理解していないのかもしれない。そう思い、試しに聞いてみた。 母「ねえ、驚いた顔してみて」 息子 (無表情) 母「驚いた顔ってどんな顔?」 息子 (鼻の下を伸ばす) 母「え、眉毛あげたり、口開けたり、目を大きくしたりするんじゃない?」 息子「え〜そんなことしないよ〜笑笑」 (眉毛を上げ下げしようとして失敗、ふざけ始める) 母「じゃあ、どんな時に驚く?」 息子「バナナな時、アハハハ」 母「じゃあ、いきなりプレゼントもらったら?」 息子「バナナーバナナーバーナーナ あははは」 ...息子がふざけすぎていて、「驚き」をどこまで理解しているのか確認できない。 いずれにせよ、これまでのやりとりから息子は「驚き」をうまく言語化できない、もしくは驚いている自分をメタ認知できていなさそう。 乳児は、母親が驚いていることを理解できる。これは生存本能の一つで、「親が驚く=危険=近づかないほうがいい」と推測できるからだ。実際の研究でも、親が新しいものに驚いたり後ずさりしたりすると、子どもも近づかなくなる傾向が確認されている (Klinnert et al., 1983)。 ただし、「驚き」という感情を自分自身で理解するには、もっと複雑なプロセスが必要になる。 ・まず「何かが起こるだろう」という予測を立てる ・その予測が裏切られる ・その不測の事態に気持ちが追いつかず「驚いている」と自覚する この一連の流れを瞬時に処理できてこそ、「驚き」という感情を理解できる (Bartsch & Estes, 1997)。 さらに他人の「驚き」を理解するには、その人がこうした思考プロセスを辿っていることを表情から読み取らなければならない。しかし「恐怖」と「驚き」の表情を区別するのは子どもにとって難しく、10歳でも間違えることがある (Gosselin & Simard, ...
息子が生まれてから気づいたことがある。 それは、年々「ノーメイクで繰り出せる行動範囲」が拡大している、ということである。 息子が生まれる前は、「ノーメイクで電車に乗るなんて…せめて眉毛くらい描こう」と思っていた。 ところが今では、新幹線と電車を乗り継ぎ、六本木までも堂々たる姿でノーメイクで出歩けるようになった。 進化なのか退化なのか、単なる怠慢なのかはよくわからないが、少なくとも「人目を気にする」ということの優先順位がここ数年で著しく下がったのは確かである。 そんなノーメイク快適ライフを満喫していたある日、大学教員向けの研修会に参加することになった。 「さすがにノーメイクではまずいか…」と思い、久しぶりに化粧をすることに。 ところが夏休み中のノーメイク生活が長すぎたせいで、化粧の仕方をほぼ忘れている。 さらに薄暗い部屋で慌てて化粧をしたら、なんだかオカメインコのような厚化粧に…。 「ちょっと濃いかな…」とは思ったものの、今さら直す時間もない。 朝ごはんもまだ、息子のお弁当もまだ。うわぁ〜〜〜と焦っていたそのとき、6歳の息子が放った一言。 「え、顔めだりすぎぃぃぃぃwww アハハハハ😆」 やっぱり...目立ちすぎか。 そんなにオカメインコか。6歳児でも気づくレベルなのか!! 慌ててチークを手でゴシゴシ落としながら、ふと思ったのは息子の「めだりすぎ」という言葉のことだった。 「めだりすぎ」– これは立派な言語現象で、専門用語で「過剰一般化」と呼ばれる。 たとえば、子どもはこんなふうに規則を見つける: 読んだ → 読む 飲んだ → 飲む だから、「死んだ → 死む」になるだろう!と推測し、「カブトムシ、死むの?」なんて言ってしまう。これが過剰一般化。 同じように「連用形+すぎる」という形を学んだ子どもは、 走る → 走りすぎ(る→り) 遊ぶ → 遊びすぎ(ぶ→び) 読む → 読みすぎ(む→み) 書く → ...
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