Moeko Waga Ozaki
I study conversations between Japanese and American parents and children through the lenses of sociolinguistics, English linguistics, contrastive linguistics, and language socialization.
My research focuses on why children’s speech and values change based on their environment and culture, and how adult-child communication varies across cultures.
I’m also navigating the challenges of raising my own preschooler!
What's new
昨日の7歳息子との一場面。 「それ、おバカだよ〜!」 と息子が私をいじってきた。 ところが、そのとき私は一日の疲れからか、ぼけーっとしていて返事をしそびれた。どうやら息子には、私が気分を害して黙り込んだように見えたらしい。 すると、少し慌てた様子で、 「あ、あっちのバカじゃなくて、おバカの方のおバカね。バカなカバじゃなくて、おバカの方のおバカ。わかった?」と説明し始めた。 私「え、あ、うん笑」 息子「ふ〜、よかった」 そこで気になって聞いてみた。 私「ところで、バカなカバとおバカは違うの?」 息子「え、違うでしょ。バカは失礼でしょー! ママ、大人なのにそんなこともわかんないの?」 …失礼しました。 息子の中では、「バカ」と「おバカ」は明確に別物らしい。 辞書的な意味だけを見れば、どちらも相手を賢くないと評価する表現である。「お」が付いたからといって、「お名前」のような丁寧語になるわけでもない。 しかし、実際の会話では、失礼に見える表現が必ずしも失礼になるとは限らない。 ポライトネス研究では、人が他者との関係の中で守ろうとする社会的な自己イメージを「フェイス」と呼ぶ(Brown & Levinson, 1987)。相手を「バカ」と呼ぶことは、その能力や自己イメージを否定し、フェイスを脅かす行為になり得る。 一方で、親しい相手に、「アホやなあ」 「ほんと、ばかだね」 「もう、おバカ!」 と言うことで、かえって親しさが表現されることもある。 表面上は失礼なことばを使いながら、実際には相手を傷つける意図がない現象は、mock impoliteness(見せかけの非礼)やbanterとして研究されている。からかいが冗談として共有されれば、攻撃ではなく、親密さを確認する行為にもなる。 息子の「おバカ」も、まさにこの種類のことばだったのだろう。 ただし、冗談は話し手が「冗談のつもり」で言うだけでは完成しない。聞き手が笑ったり、言い返したりすることで、初めて「これは私たちの間で許されたからかいです」という意味が共同で作られる。 ところが、私は返事をしなかった。 息子にとっては、 「…あれ? ママ、傷ついた?」 という小さな緊急事態だったのかもしれない。 そこで息子は、 「あっちのバカじゃなくて、おバカの方」 と説明し直した (言語学的に言えば、リペアをした)。 ここで修正しているのは、単語そのものではない。 「今の発話は、あなたを傷つける悪口ではありません」 と、発話の受け取り方を修正しているのである。 もちろん、「お」が付けば失礼さが消えるという文法規則があるわけではない。「おバカ」の柔らかさは、「お」という接頭辞だけに入っているのではない。 「おバカだよ〜」というイントネーション、ふざけた表情、親子という関係、それまでのやりとり。そうしたものが合わさって、「これは親しみのあるからかいです」という意味を作っている。 ことばの丁寧さや失礼さは、単語の中に固定されているのではない。誰が、誰に、どのような関係の中で使うかによって、相互行為の中で決まっていく。 さて、ここで一つ気になる。 カバはバカでよいのか。カバからすれば、非常に不本意であろう。 それでも、この場面の「バカなカバ」が許容されるのは、実在するカバを評価する発話ではなく、「悪い方のバカ」を示すことば遊びのラベルとして使われているからである。特定の誰かのフェイスを直接傷つけているわけではない。 ただし、動物園でカバを目の前にして、 「このカバはバカだ」 と言えば、意味合いは変わってくる。 ...
遡ること、3ヶ月前。 小学校1年生になり、そろそろ学習習慣を作った方が良いか…と思い、チャレンジを始めてみた。 元々そろばんも習っていたので、まぁ算数は余裕でしょ!と思って「簡単だからやってみ〜」と息子に渡したところ、まさかの部分で大苦戦。 なにかというと、 ・(1)(2)などがわからない。ページを一番上から読み、(1)(2)と順番に解く、という流れを知らない ・文章題を理解できない。そもそもちゃんと読まない ・国語に至っては尚更。「文章中から抜き出す」ということが理解できず、マス目を違うもので埋めようとする 考えてみれば、私も小学校5年生でアメリカから帰国した時に、「このマス目には一体なにを書けば良いのだろうか? はて…?」と思ったことを思い出した。 これは、まさに言語社会化の一例だろう。Schieffelin and Ochs(1986)は、子どもがことばを学ぶということは、単に語彙や文法を覚えることではなく、その社会で期待されるふるまい方を学ぶことでもあると述べている。 チャレンジも同じである。 子どもは、足し算やひらがなだけを学んでいるのではない。 「問題は上から順に読む」 「(1)(2)は解く順番を表す」 「マス目には指定された形式で答えを書く」 「抜き出すとは、本文の中から同じ言葉を探すこと」 という、日本の学校教育に特有の読み方そのものを学んでいる。 大人から見ると当たり前すぎて、教えるべきことだと気づきにくい。 でも、これらは自然に身につくものではなく、学校という場に参加する中で少しずつ覚えていく作法である。 「わかる」ことと「学校的に正しく答えられる」のあいだには、意外と距離があるのだ。 そして親の私は、その横でつい、 「いや、そこから!?」 とツッコミながら、学校リテラシーへの社会化を目撃しているのである。 参考文献 Schieffelin, B. B., & Ochs, E. (1986). Language socialization. Annual Review of Anthropology, 15, ...
最近の息子は、ひらがな練習がちょっとしたブームである。 綺麗に書けると先生に花丸がもらえるので、なるべく丁寧に書いては悦に浸っている。 さて、最近練習していたのは「じ」と「ぢ」。 👦「ねーねー、ぢがつく言葉って何がある?」 👩「鼻血とか、“ぢ”だよ」 👦「やっぱり?! 絶対そうだと思った」 👩「だよね。だって“血”だから、“し”に点々じゃなくて、“ち”に点々なんだよ」 👦「え、いや、ふつーに音が違うよ」 👩「え、“じ”と“ぢ”は一緒だよ」 👦「違うよ。音でわかるもん。“ぢ”は“ぢっっっ!”って感じで、パーンってちょっとするんだよ。“じ”より強いんだよ」 👩「そ、そうなのか……」 そうなのだろうか。 私も音声学は専門ではなく、基礎的な教科書で軽く齧った程度なので、自信満々に語れるわけではない。 しかし、現代標準日本語では、「じ」も「ぢ」も基本的には同じ音とされる。IPAで書けば、どちらも教科書的には [d͡ʑi]である。実際の発音では、語中などで破擦が弱まり、[ʑi]に近く発音されることもあるが、少なくとも「じ」と「ぢ」が別の音として区別されているわけではない。 つまり、現代語としては、「じ」と「ぢ」は同じ発音と考えてよい。 ただし、濁音化する前の音に目を向けると、少し話が面白くなる。 「し」と「ち」は、どちらも無声で、舌の前の方を歯茎から硬口蓋あたりに近づけて出す音である。ただ、音の作り方には違いがある。 「し」は 摩擦音である。 舌で完全にはふさがず、狭いすき間から息を通すことで摩擦を起こして発音する。 一方、「ち」は破擦音である。 最初に舌で一瞬空気の流れを止め、その後すぐに摩擦を出す。つまり、「止めてから、こする」ような音である。 本来、この違いは「し」と「ち」の違いであって、「じ」と「ぢ」の違いではない。 しかし、息子が言う「ぢは、パーンってちょっとする」「じより強い」という感覚は、もしかすると、「ち」がもつ破擦音的なイメージに引っ張られているのかもしれない。 実際には同じ音として発音されているはずなのに、文字として「ち」に点々がついていると、そこに「ち」らしさを感じてしまう。 これは、音そのものの違いというより、文字と音のイメージが混ざり合った、子どもならではの鋭い感覚なのかもしれない。 ここで思い出すのが、音象徴である。 音象徴とは、ことばの音そのものが、なんとなく意味や印象と結びついて感じられる現象のことである。 たとえば、日本語では「ころころ」と聞くと、小さくて丸いものが転がる感じがする。一方で、「ごろごろ」と聞くと、もっと大きくて重いものが転がる感じがする。 「きらきら」は明るく細かく光る感じがするが、「ぎらぎら」は強く、少し不快な光の感じがする。 このように、ことばの意味は本来、音と必然的に結びついているわけではない。 しかし実際には、ある音が特定のイメージを呼び起こすことがある。これが音象徴である。 有名な例に、takete–maluma 実験がある。 これは、ギザギザした図形と丸みのある図形を見せて、どちらが taketeで、どちらが maluma かを選ばせる実験である。多くの人は、鋭く角ばった図形を ...
今朝、起きてすぐに息子からびっくりする質問が飛んできた。 👩「おはよー」 👦「おはよー。ねーねー、ことばってどうやって始まったのかな?」 👩「?!?!?!」 6歳が、言語の起源に興味を持つとは。 誓ってやらせではない。 これは…! よいブログのネタになる…! そう思った私は、急いで携帯のメモ画面を開きながら、こんな話をした。 👩「んー、もともと人は四足歩行だったんだよ。こんな感じで」 朝5時50分、リビングで四足歩行している母親は、日本全国で私だけだったかもしれない。 👦「知ってるよ」 👩「それで、そのあと立つようになったら、あれ、手が使えるじゃん!人の顔も見えるじゃん!ってなったわけ」 👦「うん」 👩「それで、手を使って火を起こせる!あっちとかこっちとか、指で指せる!それなら、しゃべったらもっと効率いいんじゃない?!しゃべろう!……ってなったんじゃない?」 👦「えー、ちがうと思うよ」 👩「そうなの?じゃあ、どんな感じだと思う?」 👦「まずさー、猿から人間になるでしょ。たぶん、それはそう!でもその後はさ、手を使うとか、手を振るとかじゃなくて、適当になんかちょっと声が出て、それでやっほーってなったんじゃない?」 👩「な、なるほど…。じゃあ、最初は適当だと思う?」 👦「そりゃそうでしょー」 というわけである。 実に面白い。 私自身、言語の起源については、言語学の教科書に軽く書いてある程度の知識しかない。なので、もしかすると、そもそも私の説明が間違っていたかもしれない。あるいは、あまりにも極端に端折りすぎていたかもしれない。 そもそもヒトの系統は、約930万〜650万年前に、現在の類人猿につながる系統から枝分かれしたと考えられている(Almécija et al., 2021)。その後、二足歩行への移行を含め、身体にはさまざまな変化が起きた。 言語との関わりでよく取り上げられるのが、発声器官の変化である。たとえば、喉頭の位置が下がったことで、声道、つまり口から喉頭までの通り道が長くなり、より多様な音を発しやすくなったとされる(正高, 1993)。もちろん、喉の形が変わったからといって、すぐに言語が生まれたわけではない。それでも、人間が複雑な音声を使えるようになるうえで、身体の変化が重要な条件の一つだったことはたしかである。 では、人間はいつから「ことば」を話すようになったのか。 これについては、実はまだわからないことが多い。 約10万年前には、すでに何らかの形で言語的なコミュニケーションが行われていたのではないか、と考えられることもある。しかし、「最初のことば」がいつ、どのように生まれたのかを直接確かめることはできない。 なにしろ、ことばは化石に残らない。 骨や道具は残っても、「やっほー」という声は地層から出てこないのである。 そのため、言語の起源をめぐる議論は、どうしても想像に頼る部分が大きくなる。あまりに検証が難しいため、1866年には、パリ言語学会が「言語の起源に関する論文は受理しない」と定めた。堀田隆一先生のブログでも、このあたりの経緯がとてもわかりやすく紹介されている。 もちろん現在では、FOXP2遺伝子のように、言語能力との関連が指摘される遺伝子の研究なども進んでいる。それでもなお、「最初の言語が具体的にどう誕生したのか」を直接証明することは、非常に難しい。 こうした背景を少しでも知っていると、どうしても大人は、「ことばには何か合理的な必要性があったはずだ」と考えたくなる。 狩りのため。危険を知らせるため。道具の使い方を教えるため。「あっち」「こっち」と指示するため。 つまり、何かしら「しゃべらないといけない理由」があって、人間は合理的な選択としてことばを使い始めたのではないか、と考えたくなるのである。 しかし、息子の考えはもっとシンプルだった。 ...