Moeko Waga Ozaki
I study conversations between Japanese and American parents and children through the lenses of sociolinguistics, English linguistics, contrastive linguistics, and language socialization.
My research focuses on why children’s speech and values change based on their environment and culture, and how adult-child communication varies across cultures.
I’m also navigating the challenges of raising my own preschooler!
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幼稚園の頃、息子はクラスの子と知り合って間もないときには「〇〇くん」と呼んでいた。ところが、仲良くなるにつれて、だんだん呼び捨てになっていった。 ちょうど同じ時期に「オレ」も使い始めたので、やんわりと言葉遣いについて指摘しつつも、私は内心、「まあ、これも一種の成長というか、マウントというか、仲間内の距離感の取り方なんだろうな」と思って見ていた。 ところが、小学校に入ってからのこと。息子がクラスで仲良くなった子を呼び捨てにしたところ、先生から「〇〇くん、と呼ぶように」と指摘されたらしい。 私自身、小学校時代をアメリカで過ごしたこともあり、「〇〇ちゃん」「〇〇くん」文化にあまり馴染みがない。だから正直なところ、これが全国的にかなり一般的な指導で、私のこれまでの教育が至らなかっただけなのか、それとも息子の学校や先生の方針なのか、よくわからない。 ただ、いずれにせよ、息子はそこでひとまず、 「友だちを呼び捨てにしてはいけない」 「くん、ちゃん、さんをつけるものらしい」 と学習したようで、最近は呼び捨てにしないように気をつけているらしい。 この問題には、もちろんジェンダー的な観点もある。「男の子はくん、女の子はちゃんでよいのか」という問いもあるだろう。ただ今回はその点はいったん置いておき、「呼称」という観点から、言語学的に考えてみたい。 日本語では、相手をどう呼ぶかが非常に重要である。 「さん」「くん」「ちゃん」だけではない。妹や弟が兄を「おにいちゃん」と呼んだり、夫婦がお互いのことを子どもの前で「ママ」「パパ」と呼んだりすることもある。つまり日本語では、個人名だけでなく、その人の社会的な立ち位置や関係性そのものが呼び名になりうる。 これは欧米では見られない現象で、兄弟のことは名前で呼ぶし、夫のことを妻がdadと呼ぶこともありえない。 学校でも同じである。英語なら Tom と呼べば済む場面でも、日本語では「太郎くん」「太郎さん」のように、名前に何かを添えることが多い。 小山(2014)は、小学校のある学級において、「さん付けをする」ことが学級目標に含まれていた事例を報告している。その背景には、「個人を大切にする」「人を傷つけてはいけない」という考えがあったという。つまり、「さん」や「くん」は単なるマナーではなく、相手を尊重し、傷つけないための言語的な配慮として位置づけられていたのである。 ただし興味深いのは、子どもたち自身も呼称を単純に受け入れているわけではないという点である。 小山の研究では、児童たちは場面によって呼び方を使い分けていた。授業中は「下の名前+さん」を使う一方で、休み時間には呼び捨てをする子どももいた。また、「さん付け」はやさしい、親しいと感じられることもあれば、どこか「まじめ」で、少し距離のある呼び方として受け止められることもあった。 つまり、子どもたちは「さんをつければよい」と機械的に覚えているわけではない。むしろ、「この場面ではどう呼ぶべきか」「この相手とはどのくらいの距離感なのか」を、日々のやりとりの中で学び、無意識に呼称に反映しているのである。このように、日々、相手との距離感を測り、呼称に反映していくというのは日本社会で生きる上で必須の能力であり、その習得の第一歩が「くん」「さん」付けなのである。 息子にとっては、きっとただの「先生に注意されたこと」なのだろう。 でもその小さな指摘の中には、実は、子どもが家庭の外の社会へ一歩踏み出していくための、大きな学びが詰まっているのかもしれない。 小山昂志(2014)「学級生活における『さん』付け呼称の受け止め方と使用に関する研究――A県B市立C小学校の学級への関わりを通して」『学校教育研究』29, 177–185 ...
息子が小学校に入って、1ヶ月が経った。 親としてやはり気になるのは、「友達ができたか?」ということである。 幼稚園までは、仲の良い子たちと毎週末のように一緒に遊んでいた。ありがたいことに、いつも友達に囲まれていた。しかし、小学校は同じ幼稚園から上がる子が1人もいない。文字通り、ひとりぼっちからのスタートである。 とはいえ、小学生なのだから、すぐに友達はできるだろう。そう思いつつも、帰宅した息子に、つい聞いてしまう。 私:「どう〜? 今日友達できた〜?」 息子:「1人はできたよ! もう1人はあと少しで友達になれそう。明日なれるかなー」 私:「あと少しでできるってどういうこと? 明日はなんでなれそうなの?」 息子:「今日は時間なくて聞けなかった。明日聞いてみる」 私:「友達になるには、何か聞かないといけないの?」 息子:「そりゃそうでしょ!! 友達にならない?って聞かなきゃ!!」 私:「そうしないと友達になれないの?」 息子:「当たり前だよ! そうじゃないと、友達なのか、友達じゃないのかわからないじゃん!ママ友達作ったことないの〜?」 なるほど。 確かに、一理ある。恋人に対しては、「好きです。付き合ってください」結婚するときには、「結婚してください」と言う。 それなのに、なぜ友達だけは、「友達になってください」が一般的ではないのだろうか。 考えてみると、恋人や結婚には、関係の開始に強い制度性や排他性、責任が伴う。誰と付き合っているのか、誰と結婚しているのかは、社会的にも重要な意味をもつ。そのため、「付き合ってください」「結婚してください」という発話は、単なる気持ちの表明ではなく、関係を変える行為として機能する。 言語学では、このように、言うこと自体が何らかの行為になる発話を「発話行為」と呼ぶ。たとえば、「約束します」と言えば約束することになるし、「命名します」と言えば名前をつけることになる。Searle(1979)の議論に従えば、「付き合ってください」や「結婚してください」もまた、関係を新しく作り出す、あるいは変化させる発話行為として見ることができる。 一方で、友人関係は基本的に排他的ではない。誰かと友達になったからといって、他の人と友達になれなくなるわけではない。制度的な手続きもない。だから、大人の友人関係は、たいていの場合、いつの間にか始まっている。 何度か話す。一緒に帰る。同じ話題で笑う。気づいたら、なんとなく友達になっている。 大人は、この「なんとなく」に耐えられる。むしろ、友達関係にいちいち宣言がある方が、少し気恥ずかしい。 しかし、子どもにとっては、この曖昧さこそが難しいのかもしれない。 Corsaro(1979)は、子どもが遊びに入るときには、かなり複雑な「参加の儀礼」があることを指摘している。子どもはただ黙って遊びに加わるのではなく、「入れて」「一緒にやっていい?」といったやり取りを通して、その場に参加する権利を確認していく。 つまり、子どもにとって「友達かどうか」を確認することは、単なるラベル確認ではない。それは、「この子と一緒に遊んでいいのか」、「この関係空間に入っていいのか」を確かめる、社会的な手続きなのである。 息子の、「そうじゃないと、友達なのか、友達じゃないのかわからないじゃん!」という発言は、まさにここに当たる。 大人にとって友達とは、徐々にできるものかもしれない。 しかし、小学1年生にとって友達とは、ある日、相手に確認し、相手から受け入れられることで成立する関係なのだろう。そこには、「友達である/友達ではない」という境界があり、その境界を越えるための、ちょっとした宣言が必要なのである。 息子は明日、その子に聞くらしい。 「友達にならない?」 どうか、よい返事がもらえますように。 Corsaro, W. A. (1979). “We're friends, ...
4月は新生活の季節で、毎年なんだかんだ慌ただしい。けれど今年は、私の所属先が新年度を迎えただけでなく、息子も小学校1年生になり、例年以上のバタバタ感である。 小学生になると、それまでの生活リズムががらっと変わる。朝は何時に家を出るのか、帰りは何時にどこへ迎えに行くのか。考えないといけないことが一気に増える。いわゆる「小1の壁」というやつだが、我が家も見事にその洗礼を受けている。 徒歩で登校するといっても、うちの地域は集団登校があるわけではない。これまで幼稚園までは車で送迎していたのに、いきなりランドセルに大量の荷物を入れて片道25分。息子がちゃんと歩けるのかというと、まあ、かなり怪しい。何度か練習はしたものの、新年度が始まってみると、行きは徒歩、帰りは小学校から学童、そこから習い事、と移動も複雑である。そうすると、誰が迎えに行くのか、誰が朝付き添うのか、何曜日はどういうスケジュールなのか…。夫は行けないので自分が行くしかないのだが、そうすると1限にギリギリ間に合わないかもしれないっっ!!など、問題は山積みである。 それはさておき。(さておくんかーーい) 入学式での校長先生のお話が、言語学的にとても印象に残ったので、今日はその話を書いてみたい。 新1年生に向けて、校長先生はこんなふうにおっしゃっていた。 「挨拶がしっかりできるって、学校ではとっても大切なことです。おはようございます。こんにちは。さようなら。ありがとう。ごめんなさい。こういった挨拶が、これから毎日しっかりできるようにしてください。」 たしかに、挨拶はとても大事だ。挨拶がハキハキしているだけで気持ちがいいし、良い印象を与えるのも間違いない。 でも、この「小学校入学時の校長先生のスピーチ」という場面で挨拶が強調されるのは、やはりおもしろいなと思った。 というのも、幼稚園のときにも「挨拶をしっかりしよう」とは何度も言われてきた。でも、それが明確に「できるようになるべきこと」「これからの目標」として語られるのは、小学校に入ってからのような気がする。「園」を卒業し、「学生」として学び、生きていく者として、まず身につけるべきものが挨拶なのか、と思うと、なかなか興味深い。 しかも、挨拶の習得は意外と難しい。 子どもの頃にはあんなに簡単に言えていたはずの「ごめんなさい」が、どうして大人になるとこんなに苦しくなるのだろうか。新社会人になってからも挨拶の指導が入ることが多いように、言えているようで、実は「きちんと言えている」人は意外と少ない。 ちなみに、英語のスピーチで「しっかり挨拶できるようになろう」という話が出てくることは、あまりない気がする。というより、そもそも日本語の「挨拶」にぴったり当てはまる英語がない。greetings はたしかに「挨拶」ではあるのだけれど、謝罪や感謝までは含まない。 アメリカの小学校教師が7〜8歳の子どもたちにどのような挨拶をしているかを分析した研究によると、教師は毎朝、黒板にその日の学習内容に合わせた挨拶を書いていたらしい。たとえば、その日に詩を読む活動があるなら、Hello Poets! といった具合である。この論文にはほかにもいろいろ興味深い例が出てくるのだが、日本の小学校でよく見られるような、「おはようございますを大きな声ではっきり言いましょう」とか、「声が小さいからやり直し」といった活動は見られなかったようだ(Shields-Lysiak et al., 2020)。たしかに、私自身も4歳から11歳までアメリカに住んでいたが、挨拶についてあまり注意された記憶はない。 まさに、これは言語社会化の興味深い一例だと思う。 たかが挨拶、されど挨拶。 小学生としての初日に、早速ことばの社会化が始まったのだなと思うと、ランドセルよりも何よりも、そのことに成長を感じて少し感慨深くなった。 Shields-Lysiak, L. K., Boyd, M. P., Iorio Jr, J. P., & Vasquez, C. R. (2020). Classroom Greetings: ...
先日のこと。 朝ごはん作りをのんびりしていたら、息子から 「シリアルまだですか?」 と言われた。 おお、ちょっと前まで「ねぇええええシリアルうううう」だったのに、ずいぶん成長したものだなあ、と感心していたら、さらにその上をいく成長ぶりを見せてきた。 「シリアルまだですか? って、なんか感じ悪い気がする。なんて言えばいいの?」 ほほー。さすがピカピカの1年生である。 しかし、たしかに難しい。 「シリアルまだですか?」より丁寧で、でも親子の会話として不自然すぎない言い方とは何か。 親に向かって 「シリアルをご提供いただけましたら幸いです」 などと言い出したら、それはそれで別の心配をしたくなる。 少し考えた末、私は 「うーん、シリアル入れてもらえたら嬉しいな、とかかな」 と答えた。 さて、なぜ「欲しい」を「してもらえたら嬉しい」に変えると、丁寧に聞こえるのだろうか。 これは、Grice が提案した「協調の原理」でかなりうまく説明できる。 Grice によれば、私たちは会話をするとき、相手が一見まわりくどいことを言っていても、「きっと何か意味があってそう言っているのだろう」と前提して理解している。 つまり会話とは、ただ文字どおりの意味を受け取る作業ではない。 「この人はいま何を伝えようとしているのか」を、互いにそれなりに頑張って推理し合う営みなのである。朝の台所でも、地味に高度な知的活動が行われている。 たとえば、「シリアルちょうだい」は直球だ。意味は明快である。 そのぶん、相手に対して要求を真正面から差し出す形になる。 一方で、「シリアル入れてもらえたら嬉しいな」は、文字どおりにはただの「私がどういうときに嬉しいか」という気持ちの説明にすぎない。 文法的には命令でも依頼でもない。 それでも聞き手は、ここで協調の原理にもとづいて考える。 「この子は、いまこのタイミングで、わざわざ自分の嬉しさの条件だけを報告しているのだろうか」と。 いや、たぶん違う。 ということは、この発話には別の意図があるはずだ。 つまり、「シリアルを入れてほしいのだな」と推論する。 これが、いわゆる間接言語行為である。 表面上は気持ちや希望を述べているようでいて、実際には依頼をしている。 では、なぜこのような言い方が丁寧に感じられるのか。 ひとことで言えば、要求をむき出しにしていないからである。 「シリアルちょうだい」は、相手をそのまま行動へ向かわせる。 それに対して、「入れてもらえたら嬉しいな」は、いったん「自分の気持ち」の形を取る。 最終的には依頼として伝わるにしても、命令や要求をそのまま突きつける感じは薄まる。 このワンクッションが大きい。なぜならば、このクッションが相手に断る余地を残すからである。 ...