尾﨑(和賀)萌子のホームページ

Moeko Waga Ozaki

I study conversations between Japanese and American parents and children through the lenses of sociolinguistics, English linguistics, contrastive linguistics, and language socialization.
My research focuses on why children’s speech and values change based on their environment and culture, and how adult-child communication varies across cultures.

I’m also navigating the challenges of raising my own preschooler!

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最近の息子は、ひらがな練習がちょっとしたブームである。 綺麗に書けると先生に花丸がもらえるので、なるべく丁寧に書いては悦に浸っている。 さて、最近練習していたのは「じ」と「ぢ」。 👦「ねーねー、ぢがつく言葉って何がある?」 👩「鼻血とか、“ぢ”だよ」 👦「やっぱり?! 絶対そうだと思った」 👩「だよね。だって“血”だから、“し”に点々じゃなくて、“ち”に点々なんだよ」 👦「え、いや、ふつーに音が違うよ」 👩「え、“じ”と“ぢ”は一緒だよ」 👦「違うよ。音でわかるもん。“ぢ”は“ぢっっっ!”って感じで、パーンってちょっとするんだよ。“じ”より強いんだよ」 👩「そ、そうなのか……」 そうなのだろうか。 私も音声学は専門ではなく、基礎的な教科書で軽く齧った程度なので、自信満々に語れるわけではない。 しかし、現代標準日本語では、「じ」も「ぢ」も基本的には同じ音とされる。IPAで書けば、どちらも教科書的には [d͡ʑi]である。実際の発音では、語中などで破擦が弱まり、[ʑi]に近く発音されることもあるが、少なくとも「じ」と「ぢ」が別の音として区別されているわけではない。 つまり、現代語としては、「じ」と「ぢ」は同じ発音と考えてよい。 ただし、濁音化する前の音に目を向けると、少し話が面白くなる。 「し」と「ち」は、どちらも無声で、舌の前の方を歯茎から硬口蓋あたりに近づけて出す音である。ただ、音の作り方には違いがある。 「し」は 摩擦音である。 舌で完全にはふさがず、狭いすき間から息を通すことで摩擦を起こして発音する。 一方、「ち」は破擦音である。 最初に舌で一瞬空気の流れを止め、その後すぐに摩擦を出す。つまり、「止めてから、こする」ような音である。 本来、この違いは「し」と「ち」の違いであって、「じ」と「ぢ」の違いではない。 しかし、息子が言う「ぢは、パーンってちょっとする」「じより強い」という感覚は、もしかすると、「ち」がもつ破擦音的なイメージに引っ張られているのかもしれない。 実際には同じ音として発音されているはずなのに、文字として「ち」に点々がついていると、そこに「ち」らしさを感じてしまう。 これは、音そのものの違いというより、文字と音のイメージが混ざり合った、子どもならではの鋭い感覚なのかもしれない。 ここで思い出すのが、音象徴である。 音象徴とは、ことばの音そのものが、なんとなく意味や印象と結びついて感じられる現象のことである。 たとえば、日本語では「ころころ」と聞くと、小さくて丸いものが転がる感じがする。一方で、「ごろごろ」と聞くと、もっと大きくて重いものが転がる感じがする。 「きらきら」は明るく細かく光る感じがするが、「ぎらぎら」は強く、少し不快な光の感じがする。 このように、ことばの意味は本来、音と必然的に結びついているわけではない。 しかし実際には、ある音が特定のイメージを呼び起こすことがある。これが音象徴である。 有名な例に、takete–maluma 実験がある。 これは、ギザギザした図形と丸みのある図形を見せて、どちらが taketeで、どちらが maluma かを選ばせる実験である。多くの人は、鋭く角ばった図形を ...
今朝、起きてすぐに息子からびっくりする質問が飛んできた。 👩「おはよー」 👦「おはよー。ねーねー、ことばってどうやって始まったのかな?」 👩「?!?!?!」 6歳が、言語の起源に興味を持つとは。 誓ってやらせではない。 これは…! よいブログのネタになる…! そう思った私は、急いで携帯のメモ画面を開きながら、こんな話をした。 👩「んー、もともと人は四足歩行だったんだよ。こんな感じで」 朝5時50分、リビングで四足歩行している母親は、日本全国で私だけだったかもしれない。 👦「知ってるよ」 👩「それで、そのあと立つようになったら、あれ、手が使えるじゃん!人の顔も見えるじゃん!ってなったわけ」 👦「うん」 👩「それで、手を使って火を起こせる!あっちとかこっちとか、指で指せる!それなら、しゃべったらもっと効率いいんじゃない?!しゃべろう!……ってなったんじゃない?」 👦「えー、ちがうと思うよ」 👩「そうなの?じゃあ、どんな感じだと思う?」 👦「まずさー、猿から人間になるでしょ。たぶん、それはそう!でもその後はさ、手を使うとか、手を振るとかじゃなくて、適当になんかちょっと声が出て、それでやっほーってなったんじゃない?」 👩「な、なるほど…。じゃあ、最初は適当だと思う?」 👦「そりゃそうでしょー」 というわけである。 実に面白い。 私自身、言語の起源については、言語学の教科書に軽く書いてある程度の知識しかない。なので、もしかすると、そもそも私の説明が間違っていたかもしれない。あるいは、あまりにも極端に端折りすぎていたかもしれない。 そもそもヒトの系統は、約930万〜650万年前に、現在の類人猿につながる系統から枝分かれしたと考えられている(Almécija et al., 2021)。その後、二足歩行への移行を含め、身体にはさまざまな変化が起きた。 言語との関わりでよく取り上げられるのが、発声器官の変化である。たとえば、喉頭の位置が下がったことで、声道、つまり口から喉頭までの通り道が長くなり、より多様な音を発しやすくなったとされる(正高, 1993)。もちろん、喉の形が変わったからといって、すぐに言語が生まれたわけではない。それでも、人間が複雑な音声を使えるようになるうえで、身体の変化が重要な条件の一つだったことはたしかである。 では、人間はいつから「ことば」を話すようになったのか。 これについては、実はまだわからないことが多い。 約10万年前には、すでに何らかの形で言語的なコミュニケーションが行われていたのではないか、と考えられることもある。しかし、「最初のことば」がいつ、どのように生まれたのかを直接確かめることはできない。 なにしろ、ことばは化石に残らない。 骨や道具は残っても、「やっほー」という声は地層から出てこないのである。 そのため、言語の起源をめぐる議論は、どうしても想像に頼る部分が大きくなる。あまりに検証が難しいため、1866年には、パリ言語学会が「言語の起源に関する論文は受理しない」と定めた。堀田隆一先生のブログでも、このあたりの経緯がとてもわかりやすく紹介されている。 もちろん現在では、FOXP2遺伝子のように、言語能力との関連が指摘される遺伝子の研究なども進んでいる。それでもなお、「最初の言語が具体的にどう誕生したのか」を直接証明することは、非常に難しい。 こうした背景を少しでも知っていると、どうしても大人は、「ことばには何か合理的な必要性があったはずだ」と考えたくなる。 狩りのため。危険を知らせるため。道具の使い方を教えるため。「あっち」「こっち」と指示するため。 つまり、何かしら「しゃべらないといけない理由」があって、人間は合理的な選択としてことばを使い始めたのではないか、と考えたくなるのである。 しかし、息子の考えはもっとシンプルだった。 ...
幼稚園の頃、息子はクラスの子と知り合って間もないときには「〇〇くん」と呼んでいた。ところが、仲良くなるにつれて、だんだん呼び捨てになっていった。 ちょうど同じ時期に「オレ」も使い始めたので、やんわりと言葉遣いについて指摘しつつも、私は内心、「まあ、これも一種の成長というか、マウントというか、仲間内の距離感の取り方なんだろうな」と思って見ていた。 ところが、小学校に入ってからのこと。息子がクラスで仲良くなった子を呼び捨てにしたところ、先生から「〇〇くん、と呼ぶように」と指摘されたらしい。 私自身、小学校時代をアメリカで過ごしたこともあり、「〇〇ちゃん」「〇〇くん」文化にあまり馴染みがない。だから正直なところ、これが全国的にかなり一般的な指導で、私のこれまでの教育が至らなかっただけなのか、それとも息子の学校や先生の方針なのか、よくわからない。 ただ、いずれにせよ、息子はそこでひとまず、 「友だちを呼び捨てにしてはいけない」 「くん、ちゃん、さんをつけるものらしい」 と学習したようで、最近は呼び捨てにしないように気をつけているらしい。 この問題には、もちろんジェンダー的な観点もある。「男の子はくん、女の子はちゃんでよいのか」という問いもあるだろう。ただ今回はその点はいったん置いておき、「呼称」という観点から、言語学的に考えてみたい。 日本語では、相手をどう呼ぶかが非常に重要である。 「さん」「くん」「ちゃん」だけではない。妹や弟が兄を「おにいちゃん」と呼んだり、夫婦がお互いのことを子どもの前で「ママ」「パパ」と呼んだりすることもある。つまり日本語では、個人名だけでなく、その人の社会的な立ち位置や関係性そのものが呼び名になりうる。 これは欧米では見られない現象で、兄弟のことは名前で呼ぶし、夫のことを妻がdadと呼ぶこともありえない。 学校でも同じである。英語なら Tom と呼べば済む場面でも、日本語では「太郎くん」「太郎さん」のように、名前に何かを添えることが多い。 小山(2014)は、小学校のある学級において、「さん付けをする」ことが学級目標に含まれていた事例を報告している。その背景には、「個人を大切にする」「人を傷つけてはいけない」という考えがあったという。つまり、「さん」や「くん」は単なるマナーではなく、相手を尊重し、傷つけないための言語的な配慮として位置づけられていたのである。 ただし興味深いのは、子どもたち自身も呼称を単純に受け入れているわけではないという点である。 小山の研究では、児童たちは場面によって呼び方を使い分けていた。授業中は「下の名前+さん」を使う一方で、休み時間には呼び捨てをする子どももいた。また、「さん付け」はやさしい、親しいと感じられることもあれば、どこか「まじめ」で、少し距離のある呼び方として受け止められることもあった。 つまり、子どもたちは「さんをつければよい」と機械的に覚えているわけではない。むしろ、「この場面ではどう呼ぶべきか」「この相手とはどのくらいの距離感なのか」を、日々のやりとりの中で学び、無意識に呼称に反映しているのである。このように、日々、相手との距離感を測り、呼称に反映していくというのは日本社会で生きる上で必須の能力であり、その習得の第一歩が「くん」「さん」付けなのである。 息子にとっては、きっとただの「先生に注意されたこと」なのだろう。 でもその小さな指摘の中には、実は、子どもが家庭の外の社会へ一歩踏み出していくための、大きな学びが詰まっているのかもしれない。   小山昂志(2014)「学級生活における『さん』付け呼称の受け止め方と使用に関する研究――A県B市立C小学校の学級への関わりを通して」『学校教育研究』29, 177–185 ...
息子が小学校に入って、1ヶ月が経った。 親としてやはり気になるのは、「友達ができたか?」ということである。 幼稚園までは、仲の良い子たちと毎週末のように一緒に遊んでいた。ありがたいことに、いつも友達に囲まれていた。しかし、小学校は同じ幼稚園から上がる子が1人もいない。文字通り、ひとりぼっちからのスタートである。 とはいえ、小学生なのだから、すぐに友達はできるだろう。そう思いつつも、帰宅した息子に、つい聞いてしまう。 私:「どう〜? 今日友達できた〜?」 息子:「1人はできたよ! もう1人はあと少しで友達になれそう。明日なれるかなー」 私:「あと少しでできるってどういうこと? 明日はなんでなれそうなの?」 息子:「今日は時間なくて聞けなかった。明日聞いてみる」 私:「友達になるには、何か聞かないといけないの?」 息子:「そりゃそうでしょ!! 友達にならない?って聞かなきゃ!!」 私:「そうしないと友達になれないの?」 息子:「当たり前だよ! そうじゃないと、友達なのか、友達じゃないのかわからないじゃん!ママ友達作ったことないの〜?」 なるほど。 確かに、一理ある。恋人に対しては、「好きです。付き合ってください」結婚するときには、「結婚してください」と言う。 それなのに、なぜ友達だけは、「友達になってください」が一般的ではないのだろうか。 考えてみると、恋人や結婚には、関係の開始に強い制度性や排他性、責任が伴う。誰と付き合っているのか、誰と結婚しているのかは、社会的にも重要な意味をもつ。そのため、「付き合ってください」「結婚してください」という発話は、単なる気持ちの表明ではなく、関係を変える行為として機能する。 言語学では、このように、言うこと自体が何らかの行為になる発話を「発話行為」と呼ぶ。たとえば、「約束します」と言えば約束することになるし、「命名します」と言えば名前をつけることになる。Searle(1979)の議論に従えば、「付き合ってください」や「結婚してください」もまた、関係を新しく作り出す、あるいは変化させる発話行為として見ることができる。 一方で、友人関係は基本的に排他的ではない。誰かと友達になったからといって、他の人と友達になれなくなるわけではない。制度的な手続きもない。だから、大人の友人関係は、たいていの場合、いつの間にか始まっている。 何度か話す。一緒に帰る。同じ話題で笑う。気づいたら、なんとなく友達になっている。 大人は、この「なんとなく」に耐えられる。むしろ、友達関係にいちいち宣言がある方が、少し気恥ずかしい。 しかし、子どもにとっては、この曖昧さこそが難しいのかもしれない。 Corsaro(1979)は、子どもが遊びに入るときには、かなり複雑な「参加の儀礼」があることを指摘している。子どもはただ黙って遊びに加わるのではなく、「入れて」「一緒にやっていい?」といったやり取りを通して、その場に参加する権利を確認していく。 つまり、子どもにとって「友達かどうか」を確認することは、単なるラベル確認ではない。それは、「この子と一緒に遊んでいいのか」、「この関係空間に入っていいのか」を確かめる、社会的な手続きなのである。 息子の、「そうじゃないと、友達なのか、友達じゃないのかわからないじゃん!」という発言は、まさにここに当たる。 大人にとって友達とは、徐々にできるものかもしれない。 しかし、小学1年生にとって友達とは、ある日、相手に確認し、相手から受け入れられることで成立する関係なのだろう。そこには、「友達である/友達ではない」という境界があり、その境界を越えるための、ちょっとした宣言が必要なのである。 息子は明日、その子に聞くらしい。 「友達にならない?」 どうか、よい返事がもらえますように。 Corsaro, W. A. (1979). “We're friends, ...