尾﨑(和賀)萌子のホームページ

Moeko Waga Ozaki

I study conversations between Japanese and American parents and children through the lenses of sociolinguistics, English linguistics, contrastive linguistics, and language socialization.
My research focuses on why children’s speech and values change based on their environment and culture, and how adult-child communication varies across cultures.

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伊豆の方言について、谷口ジョイ先生、武智一雄さんと一緒に登壇します⭐️ オンライン配信もありますので、ご興味がありましたらぜひご参加ください! ========================== 伊豆弁話者あつまれ! 伊豆のことばやイントネーションを楽しむジオカフェを開催します。 文字にするとわからないイントネーション。 「ワラビ」や「サザエ」、ときには魚の「アジ」。そして「熱海」「河津」「南伊豆」といった地名まで。 単語のどこにアクセントを置くのかによって、込める気持ちが違う? そこには、単なる言葉の違いを超えた、地域への誇りや帰属意識が隠れているのかもしれません。 言葉の違いは、人をつなぐのか。それとも、人を分けるのか。 言語学者のお二人とともに、身近な方言やアクセントを入口に、地域のプライドや人々の心理、そして言葉の多様性について考えます。 ぜひご自分の地元のことばを携えてご参加ください。聞くだけの参加ももちろん大歓迎。 さあ、イズゴ。イントネーションの世界へ、インビテーション。 開催日時 2026年11月22日(日)14時00分~16時00分 会場 三島市民文化会館 第二会議室 参加費 500円(お茶とお菓子付き)  定員 30名 アーカイブ配信あり(無料) 主催 美しい伊豆創造センター ========================== 詳細はこちら お申し込みはこちら ...
最近、伝記の読み聞かせにハマっている息子(7歳)。 そう書くと、さぞ知的でインテリな7歳を想像するかもしれないが、実態は少々異なる。どうやら息子は、偉人たちの生き様や功績よりも、その人がいかに「かわいそう」だったかに興味があるらしい。 「え、ヘレン・ケラーは耳も聞こえないし、目も見えなかったの?!かわいそう…」 「モーツァルトって35歳で死んじゃったの?!かわいそう…」 「ピエール・キュリーは馬車に轢かれて死んじゃったんだ…かわいそう」 読み終わってから湧き出てくる疑問も、「何歳で死んだの?」「どうして死んだの?」といったものばかり。 伝記なので、基本的に登場人物はすでに全員お亡くなりになっている。 つまり、息子にとって伝記は「かわいそう」の宝庫なのである。 さて、この「かわいそう」という感情、実はなかなかに面白い。 私は以前からこの感情に強い関心を持っており、博士論文でも、子どもが他者の感情をどのように理解し、共感の仕方を学んでいくのかを主要なテーマの一つとして扱ってきた。 人間は生まれて間もない頃から、心地よさや不快さを感じ、成長とともに喜び、怒り、悲しみ、恐怖、さらには嫉妬や罪悪感など、さまざまな感情を経験するようになる。 なかでも興味深いのが「共感」の発達である。 実は、赤ちゃんの頃から、他の人が泣いているとつられて泣いてしまうなど、共感の始まりともいえる反応が見られる。 しかし、他人が泣いているのを見て自分も悲しくなることと、「この人はなぜ悲しいのだろう」と相手の立場から考えることは、少し違う。 心理学者のHoffman(2000)によると、共感は、目の前の人の苦痛に反応する段階から、相手の置かれた状況や人生そのものにも思いを寄せられる段階へと発達していくという。 つまり、目の前で友達が泣いているのを見て悲しくなることと、何百年も前に生きていたモーツァルトが35歳で亡くなったことを悲しく思うことは、実は少し違うのである。 後者には、会ったこともない人の人生や境遇を、頭の中で想像する力が必要になる。 そう考えると、息子が伝記を読んで「かわいそう」を連発するのも、共感能力の発達という観点からは、なかなか興味深い。 もっとも、ここで一つ重要なのが、「かわいそう」と思うことと「共感すること」は、厳密には同じではないという点である。 例えば、「ヘレン・ケラーは目も見えないし、耳も聞こえなかったの?!かわいそう」という息子の発言。 確かに、視覚と聴覚の両方に障害がある生活には、さまざまな困難が伴う。しかし、ヘレン・ケラー自身がその人生をずっと「かわいそう」だと思っていたかといえば、もちろんそんな単純な話ではない。 つまり、息子の「かわいそう」は、ヘレン・ケラー本人の気持ちというより、「自分だったらつらいだろうな」という、自分の立場からの想像なのかもしれない。 「自分だったらどう感じるか」と「その人自身はどう感じていたのか」は、似ているようで違う。 そして、こうした自分と他人の視点を区別して考える力は、学童期から思春期にかけても発達を続けていく(Decety & Michalska, 2010)。 さらに、言語社会化という観点から考えると、もう一つ面白いことがある。 そもそも、私たちは何を見て「かわいそう」と思うのだろうか。 病気になった人? 大切な人を亡くした人? 一人ぼっちの人? 貧しい人? こうした状況が、誰にとっても、いつでも、同じように「かわいそう」と受け止められるわけではない。 私たちは、周囲の大人がどのような出来事に「かわいそう」と言い、誰に同情を寄せるのかを、日々のやり取りの中で学んでいく。 つまり、「共感する能力が育つこと」と「何をかわいそうと思うのかを学ぶこと」は、別の話なのである。 特に後者には、社会や文化の価値観が深く関わっている。 子どもは、ただ自然に感情を身につけるだけではない。周囲の人とのやり取りを通して、どのような場面で、誰に対して、どんな感情を抱き、それをどう表現するのかを学んでいく。 そして、読み聞かせは、その格好の機会なのである。 「かわいそうだね」 ...
これまでこの育児日記は息子(7歳)について書いてきたが、実は今年の年末か年明け頃には第二子が生まれる予定。 新たな 研究対象    家族 が増えることにより、息子の時には書けなかった新生児期からの言語発達について書けると思うと、嬉しい限りである。 さて、今日はそんなわけで胎児のお話。 言語社会化(language socialization)という研究領域では、社会化はいつから始まるのか、という問いに対して、 「ヒトが社会的接触を持った瞬間から死ぬまで」 と説明されることがある。 「生まれてから死ぬまで」 の方がわかりやすいのに、なぜあえて「社会的接触」という表現を使うのか。 それは、ヒトは生まれる前から、すでに周囲の人々の声や音に接しているからである。 もちろん、胎児が大人と会話をしているわけではない。しかし、言語の習得につながる経験は、実は生まれる前から始まっている。 胎児の聴覚は妊娠中期から後期にかけて徐々に発達する。 研究によると、妊娠19週頃から特定の音に反応する胎児が現れ、25〜27週頃には比較的低い周波数の音への反応がかなり明確になってくる。そして妊娠後期にかけて、より高い周波数の音にも反応できるようになる。 ただし、胎児が聞いている音は、我々が普段聞いている音とはかなり異なる。何しろ、羊水や子宮、母親の腹壁などに囲まれた状態で音を聞いているのである。 いわば、お風呂に潜った状態で、脱衣所で会話している家族の話を聞いているようなものだ。特に、音声の高い周波数成分は弱まりやすく、比較的低い周波数の音が胎児に届きやすい。 となると、胎児はどれくらいその言葉を聞き分けられているのか、ということになる。 DeCasper et al. (1994) は、妊娠33〜37週の妊婦に、毎日同じ短い童謡を声に出して読んでもらう実験を行った。 そして、胎児にその聞き慣れた童謡と、別の童謡の録音を聞かせ、心拍数の変化を調べた。すると、繰り返し聞いていた童謡に対しては胎児の心拍数が低下したのに対し、別の童謡に対しては同様の反応が見られなかった。 これは、胎児が繰り返し聞いた音声を記憶し、それ以外の音声と区別できる可能性を示している。 さらに驚くべきことに、生後わずか2日の赤ちゃんでも、母親が話していた言語と、別の言語を区別し、前者を好む傾向があるという研究もある(Moon et al., 1993)。 つまり、言語の習得は、赤ちゃんが初めて「ママ」と発するずっと前から、すでに始まっているのである。 さて、これから生まれてくる第二子が、どのように言葉を身につけ、兄とどのようにやりとりするようになるのか。 母親としても、言語学者としても、今から楽しみで仕方がない。 ただし、新生児期からの言語発達を観察するという壮大な研究計画が、7年ぶりの産後の寝不足により頓挫しないことを祈るばかりである。 DeCasper, A. J., et al ...
先日の、息子(7歳)とその友達(同じく7歳)との車の中での会話。 お友達が息子に放ったのは、なかなか衝撃的な一言だった。 「XXはさー、ほんとは[息子]のこと好きじゃないけど、しょうがないから遊んであげてるんだって」 おー。 なかなか辛辣な噂話だ……。 XXとはこれまで何度か一緒に遊んでいて、私もてっきり息子と仲が良いのだと思っていた。大人だったら、なかなかショックを受ける内容である。 しかし、まあ人生山あり谷ありだ。 ショックなことや、つらいことも経験しながら人間関係を学んでいく。それも人間形成の大切な一部なのだろう。ここは親が口を挟む場面ではない。頑張れ、息子よ! ……などと、私の頭の中で壮大な思考がぐるぐると展開していると、息子はこう返した。 「まじで、おわったわー。ていうかさ、最近ベイブレードやってる?」 ん???? かなりライトだぞ?? そうして、つい数秒前までしていた噂話は突風のようにどこかへ飛んでいき、話題はベイブレードへ。 その後も息子がXXの話を蒸し返すことはなく、どうやら本当に気にも留めていない様子だった。親だけが「友情とは」「人間関係とは」などと考えていたらしい。 でも、この会話を聞いていて、言語学的に二つ気になったことがあった。 一つ目は、「人は何歳くらいから噂話をするのだろう?」ということ。 言語を使って、不在の第三者について情報や評価を交換するという行為は、かなり人間らしい社会的行動である。 実際、Dunbar(2004)は、人間の会話では他者や人間関係についての話題が約2/3を占めることを指摘し、噂話には単なる悪口以上に、集団内の情報共有や社会的な結びつきを維持する機能があると論じている。 では、子どもはいつからそんなことを始めるのだろう。 これが意外と早い。Engelmann, Herrmann, and Tomasello(2016)は、3歳児と5歳児を対象に、第三者についての評価情報を他者に伝えるかを調べた。 すると、3歳児ではそのような情報を自発的に伝えることはまだ少なかったのに対し、5歳児になると、他者が「誰と関わるべきか」を判断するのに役立つような評判情報を、自発的に伝えるようになった。 となると、7歳児が車の中で、「XXは、本当は[息子]のこと好きじゃないらしいよ」と伝えていること自体は、発達的にはそれほど驚くことではない。むしろ、まさに「噂話をする生き物」になりつつある年齢なのかもしれない。 もう一つ気になったのが、発話行為(speech act)である。 Searle(1969)は、ことばを話すということは、単に情報を口から出しているだけではなく、ことばによって何らかの行為をしているのだと考えた。 たとえば、「お茶をください」と言えば、相手に対して「お茶を持ってきてほしい」と要求するという行為をしている。「ごめんなさい」と言えば謝罪をしているし、「約束します」と言えば約束という行為をしている。 つまり私たちは、ことばを使って、お願いしたり、謝ったり、約束したり、警告したりしている。 さらに我々はことばを発することで相手に何らかの変化を生じさせることもある。誰かを説得する。安心させる。怒らせる。行動を変えさせる。 こうした、発話によって相手に生じる効果を、発話媒介行為(perlocutionary act)と呼ぶ。 そう考えると、今回のお友達の発言もなかなか興味深い。 「XXは、本当は一緒に遊びたくないらしいよ」という情報を息子に伝えることは、単なる事実の伝達では済まない可能性がある。それを聞いた息子が、「じゃあ、もうXXとは遊ばない」と思うかもしれない。あるいは、その話をさらに別の友達へ伝えるかもしれない。 たった一つの発話が、人の印象を変え、行動を変え、さらには友人関係そのものを変えてしまうことがある。噂話とは、実はかなり強い「行為性」を持ったことばなのである。 ところが今回の息子の場合、「まじで、おわったわー」である。 少なくとも目の前で見ている限り、友人関係を再考するでもなく、XXへの評価を変更するでもない。厳密に言えば、友達が噂を「伝える」という発話行為そのものは成立している。しかし、その発話によって息子の感情や行動、人間関係が変化するという発話媒介的な効果は、ほとんど発生していない。 では、7歳くらいの子どもは、発話が持つこうした複雑な力をどこまで理解しているのだろうか。 まず、比較的単純な間接発話行為(indirect ...